タイトル | 新耳袋 |
著者 | 木原 浩勝 中山 市朗 |
巻数 | 全10巻 |
とうとう。開いてしまいましたね。あなたが今開いたのは、異界への扉です。
上(はじめに)京極 夏彦 より抜粋
怪談蒐集家の著者による渾身の九十九話
これはただの怪談本ではなく、著者が長年かけて蒐集してきた怪談を収録した「実話怪談集」である。 怪談の舞台は現代の日常の中。私たちが日常生活を送っているこの場所こそが、怪談の舞台となっている。何気ない日常の中で突然運命の人に出会うように、ある日突然怪異と出会う。怪異と出会う前触れは無く、その出会いには何の意味も因縁も無い。怪異に遭遇した事にすら気付いていない人がほとんどだろう。誰しも、自分がまさか今日の午後に心霊現象に遭遇するなんて思って生きてはいないのだから。 「新耳袋」には、そんな日常の中で起こった「非日常」に運よく遭遇した人たちの貴重な実話怪談が惜しみなく詰め込まれている。その数なんと、1巻に九十九話。全10巻で約1000話もの怪談と出会うことができる。九十九話を読み終えた時、読者の頭に浮かんだ怪談を最終話として加えて百物語が完成し、新たな怪異が起こるのだという。
一話毎に蓄積していく恐怖
新耳袋は短編集だ。1話は短いもので1ページ、長くても4ページほどで完結する。全ての話がしっかりと作り込まれた最恐の心霊話でもない。怖がらせてやろうとの意気込みも感じないし、怪異に遭遇した理由も分からないような話がほとんどだ。ただ淡々と、どこかの誰かに起こった不思議な話が綴られているだけ。だから、1話だけ抜き出して読むと、そこまで恐怖は感じないように思える。しかし、1話、また1話と読み進めていくと不思議と恐怖が蓄積していく。 おそらく、「分からない」ことそれ自体に恐怖を感じるのだろう。原因があり、原因に基づいて怪異が起こり、原因を突き止めて解決法を導き出し、怪異を収める…というような作り込まれたものにはない、「得体の知れないものが日常に入ってくる」という恐怖。そういった、ある意味「本能的」とも言える恐怖を感じられるのが、新耳袋の一番の魅力である。
新耳袋との出会いと百話目の怪異
私と新耳袋との出会いはおよそ30年前、管理人が小学生の頃まで遡る。当時、小学生向けの怪談本は全て読み尽くし、ありきたりの心霊パターンに飽き飽きしていた怪談マニアのひねくれた少女が本屋で出会った「新耳袋」は衝撃的だった。本屋に行くたびに棚を覗き、新刊が発売されていないかをチェックしていたのをよく覚えている。 新耳袋は現代版の百物語。読み終えた後には怪異に遭遇できる。その謳い文句を根っから信じていたわけではない。私は当時一度たりとも怪異に遭遇したことは無かったし、少し期待しつつも「幽霊なんて出るわけがない」と心の底で思っていた。 9冊目を読み終えた時の話である。その日は平日で、父は仕事で母は帰宅してから習い事先へ妹を迎えに行ったので自宅には私一人しかいなかった。新耳袋を読み終えた私は広いリビングが怖く感じたため風呂場に逃げた。もちろん家中の電気を点け、テレビも大音量で付けっぱなしである。下を向いて目を瞑って髪を洗っている時、後ろから首を伸ばした長い髪の女に覗き込まれそうな気がして嫌だったので、顔を上に向けて目に泡が入らないように最新の注意を払いながら、いるかも分からない幽霊に「見張ってるんやぞ」と威嚇しながら頭を洗っていた。すると、風呂場の磨りガラスに人影が映った。帰ってきた妹が風呂場に来たのかと思って「おかえりー」と声をかけた。すりガラスの向こうの人影は返事もせずに踵を返すと、歩き去っていった。洗濯物でも置きにきたのかと思いつつ頭の泡を洗い流し、家族が帰ってきたことで気を大きくした私はのんびりと風呂に浸かってから風呂を出た。 もうお気付きだろうが、結果的に家族は誰も帰ってきてはいなかった。頭にタオルを巻いたままリビングに戻った私がその事に気付いた時の恐怖といったらなかった。猛ダッシュで風呂場に戻って母たちが帰ってくるまで浴室に籠城したことをよく覚えている。 本物の怪異は怪異を呼ぶ。出逢いたい人は新耳袋を読んでみると良い。チャンスは10回ある。そしてもし怪異に遭遇する事ができたら…私にも教えて欲しい。